第四章 制度的・歴史的分析:1980〜1990年代政策と構造変容の連鎖
前回に引き続き、一橋大学大学院教授である清水千弘先生からご寄稿いただいた、東京における住宅価格の高価格化構造をテーマとしたコラムを連続で配信します。
分割しての配信であり学術的側面も含みますが、非常に興味深い内容となっていますので是非最後までご覧ください。
以下は全体の章立てとなります。
第一章:東京のマンション価格はバブルか?
第二章:ユーザーコスト理論・厚生一貫的指数理論・バブル必然理論の統合
第三章:東京の住宅市場の長期均衡と期待主導構造
第四章:制度的・歴史的分析:1980~1990年代政策と構造変容の連鎖
第五章:規制緩和と経済成長
第六章:住宅アフォーダビリティ政策の限界と市場歪曲考課
第七章:住総合考察と政策的含意:成熟社会の高価格均衡をどう扱うか
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第三章 東京の住宅市場の長期均衡と期待主導構造
清水千弘
一橋大学大学院教授・都市空間不動産解析研究センター長
インフレ対策は、どの国においても中央銀行がその主要な責務を担っている。物価の安定は金融政策の核心であり、マクロ経済政策の最も基本的な目標とされている。しかし、住宅価格のような資産価格の高騰に対して中央銀行がどこまで責任を負うべきかについては、国際的にも学術的にも明確な合意は得られていない。その理由は、第一に、資産価格の変動が本質的にマクロ経済のファンダメンタルズ(人口、技術、政策、期待)に強く依存するため、金利政策による制御がきわめて困難であること、第二に、資産価格を抑制するための政策介入が、しばしば経済全体の効率性や成長を損なうリスクを伴うためである。
この問題をめぐって、国際的な中央銀行界では大きく二つの立場が存在してきた。ひとつは、米国連邦準備制度(Fed)を中心とするいわゆる「Fed view」である。この立場は、資産価格の変動は金融政策の直接的な目標ではなく、中央銀行の責務はあくまで物価(消費者物価指数など)と雇用の安定に限定されるという考え方である。Fed viewの根底には、資産価格は本質的に市場メカニズムによって決まるものであり、中央銀行がそれを積極的に操作すべきではないという信念がある。アラン・グリーンスパン議長時代のFRBは、「バブルを予防することは不可能であり、バブル崩壊後にその影響を最小化することこそ中央銀行の役割である」という立場をとった。この考え方は、2000年代初頭のITバブルや住宅バブル期においても一貫しており、「予防よりも事後対応」を原則とした政策運営が行われた。
Fed viewに立てば、住宅価格の高騰は市場の自律的調整過程の一部であり、中央銀行が金利を通じて直接介入することは適切ではない。むしろ過剰な介入は、市場の信号を歪め、経済の潜在的成長力を損なうと考える。
これに対して、国際決済銀行(BIS)が主張してきたのが、いわゆる「BIS view」である。BIS viewは、金融安定性の観点から、資産価格、特に住宅価格の急騰を放置することは、将来的な金融危機の火種を育てると警告する。BISは、中央銀行はインフレ率だけでなく、信用の伸び率や資産価格の動向を「マクロプルーデンシャル政策(金融システム全体の安定を維持する政策)」の一環として注視すべきだとする。つまり、物価安定と金融安定を同等に扱い、資産価格バブルの形成段階から金利や規制政策を通じて「予防的対応(leaning against the wind)」を行うべきだという立場である。この考え方は、2008年の世界金融危機の経験によって強化された。危機前の過度な信用拡大と住宅価格の上昇を抑制できなかったことが、Fed viewの限界を露呈させたという反省から、BISは「バブルの予防」こそ中央銀行の責務に含まれると主張するようになった。
このように、Fed viewが「事後対応」と「市場尊重」を重視するのに対し、BIS viewは「予防」と「マクロ的金融安定」を重視する。前者は自由市場と金融革新を前提とする米国型の政策哲学であり、後者は金融危機を防ぐための規制的・制度的介入を容認する大陸欧州型のアプローチである。両者の対立は、単なる技術的な政策論争ではなく、中央銀行の役割を「インフレ管理機関」とみるか、「金融安定機関」とみるかという理念的分岐でもある。住宅価格の高騰をどう扱うかという問題は、このFed viewとBIS viewの対立の中に位置している。
日本においても、バブル崩壊の経験以降、住宅価格の上昇を警戒するあまり、金融政策が過度に抑制的に運用される傾向が見られるが、実証的には、単純な金利操作によって住宅価格を安定化させることは難しい。住宅市場は期待、制度、人口、都市構造といった多層的要因に支えられており、短期的な政策対応で調整できるものではない。したがって、中央銀行の役割は、Fed viewとBIS viewの中間に位置する「バランス型アプローチ」を採ることが現実的である。すなわち、インフレの管理を主軸としつつも、資産市場の信用膨張をモニタリングし、金融システムの過熱を防ぐためのマクロプルーデンシャル政策を補完的に運用するという立場である。
住宅価格の高騰を抑制するために中央銀行が直接的な責任を負うべきではないが、その安定的推移を支える環境―信頼と期待の均衡―を整える責務は、やはり中央銀行の領域に属する。日本の住宅市場の特徴は、価格の変動が政策の変化と密接に結びついている点にある。経済理論上、住宅価格は金利や所得、供給量といった経済変数によって決定されるとされるが、実際の日本では政策制度の枠組みがこれらの変数を大きく規定してきた。金融政策、税制、土地利用制度、都市再開発政策―これらが時期ごとに相互に影響し合いながら、住宅市場の構造を作り変えてきた。したがって、住宅価格の構造的高価格化を理解するには、経済変数の動き以上に、政策の歴史的連鎖を丁寧にたどる必要がある。
このように、金融政策をめぐる理論と実践には長い議論の系譜があるにもかかわらず、現在の東京の住宅価格の高騰をめぐっては、しばしば歴史を顧みないままに「政策介入すべきだ」とする短絡的な主張が繰り返されている。こうした議論には、過去の政策対応がどのような帰結をもたらしたかという歴史的検証への感度が欠けており、経済政策の経験知が十分に活かされていないように思われる。
以下では、Shimizu(2025), “Beyond the Bubble: Structural Drivers of Tokyo’s High Housing Prices”の枠組みに基づき、1986年以降の住宅市場の動向を検討し、政策介入が果たしてどのような意義をもち得るのか、その妥当性を歴史的・制度的文脈の中で再考したい。
1980年代の日本経済は、国際政治経済の大きな転換点を迎えていた。1970年代の石油危機後、日本は高度成長から安定成長への移行期にあり、輸出主導型の経済構造を強化していた。しかし、米国との貿易摩擦が深刻化し、貿易黒字が政治的問題に転化した。この問題を背景に1985年に成立したのが、歴史的なプラザ合意である。プラザ合意の目的はドル高の是正であり、結果として急激な円高をもたらした。輸出企業の収益が悪化し、経済全体が調整局面に入る中で、政府は金融緩和政策を通じて国内需要を刺激しようとした。この政策が、住宅市場の資産バブルの直接的な起点となる。
1980年代半ば、日本銀行は公定歩合を次第に引き下げ、1987年には2.5%という当時としては極めて低い水準にまで低下させた。その結果、企業や家計が容易に資金を借り入れられる環境が整い、資金が株式市場や不動産市場に流入した。とりわけ土地は、金融資産の担保としての性格を持つため、価格上昇がさらなる信用拡大を招いた。金融機関は土地担保融資を拡大し、企業や個人は土地を保有することでバランスシートを強化できると信じた。こうして、土地価格上昇と信用拡大が互いに強化し合う「自己増殖的プロセス」が生まれた。
この時期、金融制度改革も進められた。1980年の外国為替取引自由化、1983年の銀行法改正、1985年の金融制度調査会答申などにより、金融機関の競争が激化した。貸出競争の結果、信用供与が過剰に拡大し、資金が不動産業に集中した。金融機関の内部では、土地融資が「最も安全な貸出」として位置づけられ、監督当局もそれを暗黙のうちに容認していた。その背景には、土地価格が下がるという想定が政策当局にも市場参加者にも存在しなかったという構造的な信念があった。土地は有限であり、日本のような国土が狭い国では、土地価格は永遠に上がり続けるという「土地神話」が社会全体に共有されていたのである。
土地価格の高騰に直面した政府は、1987年に不動産融資総量規制を導入し、金融機関に対して不動産向け融資の抑制を求めた。しかし、この政策は形式的なものであり、融資の実質的抑制にはつながらなかった。むしろ、融資の基準を緩めることで市場の過熱が一段と進んだ。この段階で地価は「経済政策の副作用」ではなく、「政策の主産物」として上昇していた。土地や住宅価格は、金融緩和と金融自由化という二つの政策的潮流の結節点であり、当時の日本政府の経済運営の構造的矛盾を映し出していた。
1989年になると、政府はようやく金融引き締めに転じた。日銀は公定歩合を5.25%にまで引き上げ、同年には消費税を導入した。しかし、すでにバブルは制御不能な規模に達していた。資産価格が実体経済から乖離し、土地を売買するだけで巨額の利益を得る投機的取引が広がった。東京の地価は、商業地で数年間に三倍に達し、住宅地でも二倍以上になった。住宅価格は一般家計の購買力を超え、もはや「庶民の夢」ではなくなった。この時点で住宅市場は、社会的にも経済的にも持続不可能な状態にあった。
1991年、資産バブルは崩壊した。地価と株価の同時下落は、金融機関のバランスシートを直撃し、巨額の不良債権を生んだ。日本銀行は利下げを進めたが、企業は負債圧縮を優先し、家計は消費を控えた。景気は急速に冷え込み、住宅市場も長期的な調整局面に入った。
このとき、政府が直面したのは「バブル後の住宅問題」であった。住宅価格が下落する一方で、ローン残高は減らず、多くの家計が債務超過に陥った。住宅は資産から負債へと転化し、家計の消費行動を抑制する要因となった。
政府はこの危機に対処するために、金融・土地・税制の各分野で大規模な制度改革を行った。1992年の土地基本法は、土地を公共的資源と位置づけ、「土地は投機の対象ではない」と明記した。これにより、地価上昇を抑える政策が制度的に正当化された。1991年には地価税を導入し、土地の保有コストを高めることで投機を抑制しようとした。また、相続税評価の見直しによって、土地保有のインセンティブが弱められた。これらの政策は短期的には効果を上げたが、同時に土地市場の流動性を著しく低下させ、長期的な投資意欲を削いだ。
一方で、金融政策は再び緩和へと舵を切った。1995年にはゼロ金利政策が導入され、以後、日本は長期にわたって超低金利時代に入る。低金利政策の継続は、デフレと低成長の中で、経済をかろうじて下支えする装置として機能した。住宅ローンの金利が引き下げられ、住宅購入が再び家計にとって現実的な選択肢となった。こうして1990年代後半、日本社会は新しい均衡点―すなわち「低金利・低成長・安定価格」という構造的環境に適応していった。この段階で住宅価格は安定し、家計は「家を買うことが損ではない」という感覚を取り戻した。




